【todoro】ニュースレター No.25 贅沢について考える
Share
こんにちは('-')/
todoroの平岡です。
世間は大型連休も終盤、明日が最終日という方も多いのではないでしょうか。サービス業、保守メンテナンス、配送の方は本当にお疲れ様です。
遠くにお出かけをされた方も、ゆっくり休めた方も、お休みが過ぎるのは一瞬に感じられたかもしれませんね。
さて、今回は休みを過ごすこともその中に該当するかもしれませんが、贅沢というものについて考えてみようと思います。
「贅沢」を手元の辞書(スーパー大辞林 三省堂)で繙(ひもと)くと
1. 必要以上の金や物を使うこと。
2. 金・労力などを多くかけていること。
3. その人物の立場に比べておごっていること。
とあります。
また、漢字辞典(漢辞海 三省堂)によると、「贅」は「余分なもの、無駄なもの」、「沢」は「潤っている状態」を指します。
総じて「本来必要十分な状態よりもさらに多くのものを受け取っている状態」というような意味かと思います。
多くの人にとって共通してわかりやすい指標の代表格は「時間」と「お金」ですね。辞書では特にお金や労力に焦点が当てられていますが、労を伴わない時間の消費も贅沢といえるのではないでしょうか。
「時は金なり」とも言いますが、時間とお金には、ある種の互換関係があります。たとえば労働は時間をお金に変える象徴的な行為ですし、移動手段にコストをかけると目的地まで早く着くことができます。逆に「時は金ならず」と言うこともできますね。寿命はお金では買えません。ただし、一定のお金をかけることで、ある程度の健康を維持することはできます。
大枚をはたいて美食を得るのはとてもわかりやすい贅沢です。美味しいものを食べるのは本当に幸せですよね。
翻って、木漏れ日の下で一杯のコーヒーを啜りながら読書を嗜むような時間も、とても贅沢な時間ではないでしょうか。
最近では、友達と、家族と、そのための約束を取り付けて、ただ横に並んで歩く、それすらもとても贅沢な時間なのではと思うようになりました。
なぜか。
時間は戻って来ず、人には寿命があるからです。
お金というのは時をまたいで互換性をもちます。今の1万円と10年前の1万円は、通貨としての価値は違うかもしれませんが、数%数十%上乗せすれば全く同じものです。人に渡すことだってできます。
「時をかける少女(著・筒井康隆 角川文庫)」という小説は、まさに時をかける面白さで、実写映画だけでなく細田守監督によってアニメ映画化もされています。もう20年前の映画なので、少しネタバレしてもいいかと思い書きますが、見ようと思ってる、という方は次のパラグラフまで読み飛ばしてください。このアニメ映画自体とても面白いのですが、あるシーンで「この時代でないと見られない絵画」という表現が出てきます。「たったそれだけのために」時代を超えるという、とんでもない危険を冒します。この「たったそれだけ」という感覚は人によって価値観が大きく異なることを示しています。
価値観というのは価値の軸が揃わない時に大きく差が開きます。極端な例だと「カレーとケーキどっちが好き?」というやつです。もっと言えば「ドラえもんとケーキどっちが好き?」という具合でしょうか。価値の軸が違うから比較することができない。同じ土俵に乗らない。これは数学でいう「ベクトル」に置き換えることができます。ベクトルというのはつまり「てんでバラバラな矢印の向き」です。矢印の向きが違えば価値観は一緒に揃わない、という考え方です。長い長い矢印よりも、別の短い短い矢印の方が極めて重要、ということが起こりえます。
互換性が無いというのはそういうことです。
1時間前の5分間と今からの5分間には互換性がありません。入れ替えることができない。
だからこそ毎分やってくる貴重な1分を大事に使わないといけないんでしょう。
もはや、ただ生きていることこそ、究極の贅沢なのかもしれませんね。
またニュースレターでお会いしましょう('-' )\m/